『第三の男』における死の主体性  ハリー・ライムの死因をめぐる考察

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 映画に関するある授業において、レポート課題として書いた文章を備忘録的に残しておきます。

序論:問いとしての死の演出

1949年に公開された映画『第三の男』(The Third Man)は、戦後のウィーンを舞台に展開されるサスペンスでありながら、人間関係や倫理観の崩壊、戦後社会の矛盾を鋭く描き出した傑作である。キャロル・リード監督、グレアム・グリーン脚本による本作は、公開当時から高い評価を受け、今日に至るまでその映像美や構成、音楽、テーマ性が語り継がれている。本レポートでは、本作の終盤、下水道におけるハリー・ライムの死に注目し、それが自殺であったのか、他殺であったのか、という一見些細だが根本的な問いを通して、この映画の主題に迫ることを試みる。果たして彼の死は、自己の罪への責任を取る行為であったのか、それとも友情を超えた正義の遂行であったのか。本稿ではこの問いの両側から根拠を探り、あえて明示されていないこの描写の曖昧さそのものに映画の本質があることを論じたい。

第一節:死の瞬間の演出と情報の曖昧さ

本作のクライマックスは、ホリー・マーチンズとイギリス軍警察によるハリー・ライムの追跡劇が、ウィーンの下水道にて展開される場面である。逃走中にハリーは銃弾を受け、重傷を負いながらも地上へと続く階段を這い上がり、格子扉の隙間から手を伸ばす。しかし、その扉は固く閉じられ、彼はそのまま力尽きる。そこへホリーが現れ、数秒後に銃声が響く。この一連の流れは、撃たれる瞬間を映していないため、観客は「誰が撃ったのか」という決定的な情報を与えられない。観る者は、ホリーがとどめを刺したのか、それともハリー自身が最後の一発で命を絶ったのか、判断を迫られることになる。

この演出は意図的なものであり、キャロル・リード監督とグレアム・グリーンの二人の間でも見解の違いがあったとされる。グリーンは当初、ホリーが撃つ脚本を想定していたが、撮影段階でリードはその明示を避け、観客の解釈に委ねる構成に仕上げた。つまり、作品自体が「死の主体は誰か?」という問いを観客に突きつけているのである。

第二節:自殺説に見るハリーの倫理的残滓

まず、自殺であったという説に立つと、そこにはハリー・ライムという人物の矛盾した倫理観が浮かび上がる。彼は、表面上はユーモラスで洗練された人物として描かれながらも、実際にはペニシリンの密売を通じて子どもを含む多くの市民を死に追いやっていた。利益のために道徳を踏みにじる非情な存在でありながら、彼の言動やふとした表情には、かつての友情や情の名残も感じさせる。

銃声の前に、彼はホリーと目を合わせ、無言で何かを伝えようとするかのような仕草を見せる。もしこの場面で彼が自らの罪に対する報いを理解し、ホリーにその責任を負わせたくないという思いから自殺を選んだのだとすれば、彼の中にわずかに残された人間的な良心の表れと捉えることもできる。あれほど冷徹だった彼が、最後の瞬間に選んだのが自己責任による幕引きだったとするならば、それは彼なりの「正義」の形だったのかもしれない。

また、ホリーの表情に明確な「撃った後の衝撃」や「罪悪感」が欠けている点も、自殺説を補強する根拠となる。観客は銃声を耳にするが、銃の発射という視覚的な証拠を得ていない。視覚よりも聴覚、暗示を重視するこの演出は、あくまで「死の主体を特定させない」ための工夫だと言える。

第三節:他殺説とホリーの道徳的選択

一方で、ホリーが撃ったと考える説も根強い。これは、物語全体においてホリーが「正義の代行者」としての役割を担ってきたことに起因する。彼は親友ハリーの死を受け入れられず、真相を追ううちに、彼がペニシリンの密売という非人道的行為に手を染めていたことを知る。最初は庇おうとしていたホリーだが、最終的にはその罪を許すことができず、警察と協力する立場に転じる。

この変化は、彼の中で「友情」と「正義」の葛藤が極限まで高まったことを示している。最終的に自らの手でハリーに引導を渡すことで、ホリーは「かつての友情に終止符を打つと同時に、正義を成す者としての自己」を選択するのである。ラストで彼が静かにその場を離れる様子は、まるでハリーの死によって自らも何かを失ったような無言の喪失感に包まれており、それは「撃った者」の表情として十分に成立し得る。

さらに言えば、戦後のウィーンという「倫理が機能しない社会」において、ホリーの行動はある種の新しい倫理を模索する過程でもあった。愛も友情も腐敗のなかで揺らぐこの都市で、最後にホリーが選んだ「正しさ」は、ある意味で唯一この世界に秩序を取り戻そうとする試みであったとも言える。

第四節:曖昧さそのものが伝えるもの

こうして両説を検討してみると、ハリー・ライムの死の「主体」が明確に描かれていないこと自体が、この映画にとって本質的な意味を持っていることが見えてくる。戦争という非常時を経たあとの世界では、善と悪、正義と非道といった概念が簡単には区別できないものとなってしまった。ホリーとハリーの関係もまた、明確な正誤で語ることはできず、むしろ観客一人ひとりの内面に「その死をどう受け止めるか」という問いを投げかけている。

こうした倫理的曖昧さを巧みに物語に織り込んでいる背景には、脚本を手がけたグレアム・グリーン自身の宗教的・哲学的な思想がある。彼は敬虔なカトリック信者でありながら、神の不在、救済の不可能性、罪と許しの矛盾といった主題を好んで描いた作家である。たとえば『情事の終り』(The End of the Affair)や『権力と栄光』(The Power and the Glory)といった作品では、信仰と倫理の対立、そして人間の不完全さが中心的テーマとなっている。

映画『第三の男』の脚本においても、グリーンは意図的に「善人にも悪が潜む」「悪人にも人間的な弱さや愛情がある」という視点を導入しており、単純な勧善懲悪に陥ることを避けている。特に注目すべきは、彼が映画脚本を書くにあたって先にノべライズ版を執筆しており、その中ではホリーがハリーを撃ったことが明示されている点である(Greene, The Third Man, 1950)。しかし、映画ではキャロル・リード監督の提案もあり、そのシーンは曖昧なまま描かれた。つまり、原作と映画の差異こそが、曖昧さという主題が演出上意識的に強調されたことを示している。

また、グリーンはエッセイ『私の映画と小説』(The Lost Childhood and Other Essays, 1951)の中で、「私は、人間は善と悪の間に宙吊りにされている存在だと信じている(“I believe man is suspended between good and evil.”)」と述べており、まさにその思想が『第三の男』全体に流れている。この言葉は、善悪の境界が曖昧になった時代において、どのようにして人間が選択し、責任を取るかという問題に通じている。

このように見てくると、グリーンの脚本は一貫して、「正解を提示しないこと」によって観客に道徳的な選択を委ねる構造を持っていると言える。だからこそ、観客はハリーの死の瞬間を、単なる劇的な結末としてではなく、自らの倫理を試される場面として受け止めざるを得ない。死の主体をあえて明示しないこの構成は、曖昧であること自体が主題であるという、極めて現代的な問いかけなのである。

結論:沈黙が語る倫理

ハリー・ライムの死が自殺だったのか、それともホリー・マーチンズによる他殺だったのか。本稿では両者の可能性を検討し、それぞれに一定の根拠があることを示した。だが最も重要なのは、その曖昧さが残されたことそのものが、戦後という時代の混沌を象徴しているという点にある。明確な答えが提示されないことで、観客は登場人物の選択や自らの倫理観と向き合わざるを得なくなる。

つまり、『第三の男』は「誰が撃ったのか」という問いを提示することで、「もし自分だったらどうするか」「友情と正義、どちらを選ぶか」という根本的な選択を観客に突きつけているのである。ハリーの死をめぐる沈黙は、言葉以上に雄弁であり、終戦後の世界における倫理の不在と、人間存在の不確かさを見事に浮かび上がらせている。

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